「水素社会」という言葉が語られて久しいのに、街でも工場でも、水素を使っている実感はほとんどありません。政策の旗は高く掲げられている一方で、現場ではなかなか広がらない——この距離感こそ、いまの水素を理解する出発点です。
本記事では、水素サプライチェーン(製造・輸送・貯蔵・利用)の全体像と、日本の政策が描く目標を整理したうえで、世界で何が起きているのかという「広がっていない現実」までを、できるだけ率直に見ていきます。水素そのものの基礎はグリーン水素とはもあわせてご覧ください。
≡この記事の目次
- 1水素サプライチェーンとは
- ►つくる・はこぶ・つかうの全体像
- ►なぜ「鎖」で考える必要があるのか
- 2政策が描く理想:日本の目標と支援制度
- ►水素基本戦略の導入目標(2030・2040・2050)
- ►水素社会推進法と価格差・拠点整備支援
- 3広がっていない現実:世界で起きていること
- ►相次ぐプロジェクトの中止・延期
- ►コスト上昇と「引取契約(オフテイク)」の不在
- 4なぜギャップが生まれるのか
- ►需要と供給がかみ合わない「鶏と卵」
- ►色の議論とブルー水素・アンモニアへの賛否
- 5現実的にどこから動くのか
- ►「水素でなければ難しい」用途から
- ►輸入に頼る日本のサプライチェーンの留意点
- 6理想と現実のあいだで考える
- 7よくある質問(FAQ)
水素サプライチェーンとは
水素は、つくって終わりではありません。製造から利用までを一本の「鎖」として捉えるのが、水素サプライチェーンの考え方です。まずは全体像を押さえましょう。
つくる・はこぶ・つかうの全体像
水素サプライチェーンは、大きく「つくる(製造)」「はこぶ・ためる(輸送・貯蔵)」「つかう(利用)」の3つに分かれます。
つくる段階では、再生可能エネルギーの電気で水を分解するグリーン水素や、化石燃料に二酸化炭素回収(CCS・CCUSとは)を組み合わせるブルー水素などがあります。はこぶ段階では、水素を圧縮・液化したり、運びやすいアンモニアやMCH(有機ハイドライド)に変えたりします。つかう段階は、発電・製鉄・化学原料・燃料電池など多岐にわたります。
なぜ「鎖」で考える必要があるのか
水素を「鎖」で捉えるのには、はっきりとした理由が存在します。つくる・はこぶ・つかうのどれか一つでも欠ければ、サプライチェーン全体が成り立たない構造だからです。
たとえば、安く水素をつくれても、運ぶ手段や使う相手がいなければ事業になりません。逆に、使いたい工場があっても、安定供給とインフラがなければ前に進めないわけです。後で見るとおり、この「全部そろわないと回らない」性質こそが、水素がなかなか普及しない構造的な原因になっています。
政策が描く理想:日本の目標と支援制度
まず、政策が描く「理想」の側から整理します。日本政府は、高い導入目標と具体的な支援制度を用意してきたのが実情です。
日本の水素導入量目標
足元の約200万トンから段階的に拡大を目指す
足元
約200万t/年
現在の導入量
2030年
最大300万t/年
当面の目標
2040年
1,200万t/年程度
中間目標
2050年
2,000万t/年程度
最終目標
官民で今後15年間に15兆円規模の投資を想定。供給コストは100円/Nm³前後から2030年に30円、2050年に20円を目標。
※導入量目標はアンモニア等を含む
出典:資源エネルギー庁「水素基本戦略」(2023年6月改定)をもとにgreenote作成
水素基本戦略の導入目標(2030・2040・2050)
日本の水素政策の土台が、2023年6月に改定された「水素基本戦略」です(資源エネルギー庁 水素政策)。
ここでは、水素(アンモニア等を含む)の導入量を、足元の約200万トンから、2030年に最大300万トン、2040年に1,200万トン程度、2050年に2,000万トン程度へと拡大する目標が示されました。同時に、官民で今後15年間に15兆円規模の投資を見込み、供給コストを現在の100円/Nm³前後から2030年に30円、2050年に20円へ引き下げる目標も掲げました。数字だけ見れば、壮大な成長戦略です。
水素社会推進法と価格差・拠点整備支援
この戦略を制度面で支えるのが、2024年10月に施行された「水素社会推進法」です。低炭素水素の供給と利用を早期に促すための法律で、柱となるのは計画認定制度と2つの支援措置です(資源エネルギー庁の解説)。
1つは「価格差に着目した支援」で、低炭素水素と既存燃料との価格差を国が一定期間埋める仕組みです。もう1つは「拠点整備支援」で、タンクやパイプラインなど貯蔵・輸送インフラの整備を後押しします。執行はJOGMEC(エネルギー・金属鉱物資源機構)が担い、2025年には最初の供給等事業計画が認定されています(JOGMEC)。制度の枠組みとしては、世界でも踏み込んだ部類に入るものです。
広がっていない現実:世界で起きていること
ここまでが「理想」です。ところが、足元の現実は、この目標とかけ離れているのが実情です。とくに2024年から2025年にかけては、世界の風向きが変わった転機でした。
理想と現実のギャップ
発表ベースの計画と、足元で進む見直し
発表・計画(理想)
各国・各社が掲げる高い導入目標
数多くの大型プロジェクトの発表
2050年カーボンニュートラルへの期待
足元の現実(2025年)
2030年の生産見込みが初の下方修正(49→37百万t/年)
2025年に世界で約60件の大型案件が中止
発表済みの約半数が稼働開始を後ろ倒し
グリーン水素コストが2022年比25〜40%上昇
↓目標と実物の差は開く一方
出典:IEA「Global Hydrogen Review 2025」等の公開情報をもとにgreenote作成
相次ぐプロジェクトの中止・延期
国際エネルギー機関(IEA)の「Global Hydrogen Review 2025」は、転機を象徴する内容でした(IEA)。企業の発表をもとに見込まれる2030年の低炭素水素の生産量が、前年版の年4,900万トンから3,700万トンへと、集計開始以来はじめての、象徴的な下方修正です。
背景にあるのは、世界で相次いだプロジェクトの見直しです。2025年だけで約60件の大型プロジェクトが中止され、その規模は年産にして約490万トンに相当しました。さらに、発表済みプロジェクトのおよそ半数が、当初の稼働開始時期から後ろ倒しになっています。とりわけ遅れが目立つのは、大規模な実績の乏しい電解装置の案件です。「発表」と「実物」の差は、開く一方です。
コスト上昇と「引取契約(オフテイク)」の不在
見直しを後押ししたのが、コストの上昇です。IEAの推計によれば、グリーン水素の製造コストは2022年比で25〜40%も上昇しました。資材費・人件費・金利の上昇が重なり、当初の楽観的な見通しは崩れ去った格好です。
しかし、より根が深いのは「引取契約(オフテイク)」の不在でしょう。供給側が投資判断(FID)に進むには、銀行融資に足るだけの長期の買い取り契約が欠かせません。ところが、高い水素を長期で買うと確約できる買い手は、なかなか現れません。需要が固まらないから供給投資が進まない——この需要不足こそ、多くのプロジェクトが計画段階で止まる最大の理由とされる点です。
なぜギャップが生まれるのか
では、理想と現実は、なぜこれほど開くのでしょうか。その答えは、最初に触れた「鎖」の性質に潜んでいます。
需要と供給がかみ合わない「鶏と卵」
水素サプライチェーンは、つくる・はこぶ・つかうが同時にそろわないかぎり回らない仕組みです。ここで起きるのが、典型的な「鶏と卵」の問題でしょう。
買い手は「安く安定して供給される保証がなければ、水素に切り替えられない」と考えます。一方で供給側は「長期で買う約束がなければ、巨額の設備投資はできない」と身構えます。どちらも相手が先に動くのを待つため、いつまでも最初の一歩が踏み出せないのです。日本の水素社会推進法による価格差支援は、まさにこの「鶏と卵」を断ち切り、初期の価格差を国が埋めて取引を成立させるための制度といえます。
色の議論とブルー水素・アンモニアへの賛否
もう一つ、議論を複雑にしているのが「水素の色」と用途をめぐる賛否です。水素は、つくり方によってグリーン・ブルー・グレーなどに分類されます(詳細はグリーン水素とは)。
日本の戦略は当面、再生可能エネルギー由来のグリーン水素だけでなく、化石燃料由来でCO2を回収するブルー水素も現実解として許容している点が特徴です。また、火力発電でアンモニアを石炭に混ぜて燃やす「混焼」については、脱炭素の効果が限定的でコストも高いとして、国内外で批判の声も根強いのが現実です。何を「低炭素」と認め、どの用途を優先するのか——この合意形成の難しさも、サプライチェーンの足並みをそろえにくくする一因となっています。
現実的にどこから動くのか
ここまで現実の厳しさを見てきました。とはいえ、悲観だけでは前に進みません。重要なのは、「広く薄く」ではなく、勝ち筋のある領域から動く発想です。
水素はどの用途から動くのか
「水素でなければ難しい」用途ほど出番が大きい
大
電化が難しい用途
製鉄(水素還元)、化学原料(アンモニア・メタノール)、製油所など。電気では代替しにくく、水素の価値が高い領域。
次第
ケースバイケース
長距離・大型の輸送、長期間のエネルギー貯蔵など。コストや代替技術の進み方しだいで判断が分かれる領域。
有力
電化で代替しやすい用途
乗用車や家庭の暖房など。電気で直接まかなうほうが効率・経済性で優れる場合が多い領域。
すべてを一度に狙うのではなく、「水素でなければ難しい」用途から需要を固めるのが現実的です。
出典:各種公開情報をもとにgreenote作成
「水素でなければ難しい」用途から
水素は万能ではありません。乗用車や家庭の暖房など、電気で直接まかなえる分野では、電化のほうが効率も経済性も優れる場合が多いのが実情です。
逆に、製鉄(水素還元製鉄。詳しくはグリーンスチールとは)や、化学原料となるアンモニア・メタノールの製造など、電化では代替しにくい「hard-to-abate(削減困難)」な分野こそ、水素の出番が大きい領域です。実際、世界でも生き残っているのは、こうした明確な需要に支えられたプロジェクトです。すべてを一度に狙うのではなく、水素が本当に必要な用途から需要を固める——これが現実的な順序です。
輸入に頼る日本のサプライチェーンの留意点
日本は再生可能エネルギーの適地が限られるため、安価な水素・アンモニアを海外から輸入する構想を描いてきました。国内で全量つくるのは難しい、という前提に立った戦略です。
ただし、ここで見落とせないのが次の留意点です。輸入元となる海外の大型プロジェクトの多くが、いままさにコストや引取契約の問題で延期・中止に直面している、という事実にほかなりません。供給網の「川上」が揺らげば、輸入を前提とした国内の計画も影響を免れません。だからこそ、特定の供給元に依存しすぎないこと、そして国内の需要側の用途を着実に育てることが、日本のサプライチェーンを支える鍵となるはずです。
理想と現実のあいだで考える
水素サプライチェーンは、政策が描く理想と、足元の現実とのあいだで、大きく揺れているのが現状です。高い目標と踏み込んだ支援制度がある一方で、世界ではプロジェクトの見直しが相次ぎ、コストと需要の壁は依然として高いままです。
大切なのは、過度な期待でも、性急な全否定でもない見方でしょう。電化が難しい用途では水素は不可欠であり、そこを起点に「鎖」を一つずつつないでいく地道な作業が続いているところです。普及のスピードは当初の想定より遅れているものの、向かう方向そのものが消えたわけではありません。理想と現実の距離を冷静に見つめることこそ、水素と賢く付き合う第一歩となるでしょう。
なお本記事は、特定の事業や銘柄への投資を推奨するものではなく、市場全体の傾向を中立に整理したものです。水素を含むエネルギー政策の全体像は第7次エネルギー基本計画とは、関連する脱炭素技術はCCS・CCUSとはもあわせてご覧ください。
最終更新日:2026年6月21日
よくある質問(FAQ)
Q. なぜ水素は広がっていないのですか?
A. 需要と供給が同時に立ち上がらないためです。使う側は安く安定して手に入る保証がなければ設備を変えられず、作る側は買い手が確約されなければ大規模投資に踏み切れません。この順序の問題は、技術の成否とは別の壁として残っています。
Q. グレー・ブルー・グリーン水素の違いは何ですか?
A. 作り方とCO2の扱いの違いです。化石燃料から作り排出をそのまま出すのがグレー、同じ製法でCO2を回収・貯留するのがブルー、再生可能エネルギーの電力で水を電気分解するのがグリーンです。「水素」と一語で呼んでも、排出量はまったく違います。
Q. 日本の政策は何を支援しているのですか?
A. 供給量の目標を掲げるとともに、既存燃料との価格差を埋める支援と、輸入・利用の拠点整備が柱になっています。コスト差が普及の最大の障壁だという認識が制度設計に表れています。
Q. 企業としてはどこから動くべきですか?
A. 多くの企業では、水素の導入検討より先に電化と省エネのほうが費用対効果で優ります。水素が現実的な選択肢になるのは、電化が難しい高温の熱や、製鉄のように還元剤としての用途がある領域です。自社の熱需要の温度帯を把握することが出発点になります。
編集責任
greenote編集責任者
サステナビリティ実務・編集統括
ESG・サステナビリティ開示・脱炭素分野の一次情報を継続的に確認し、greenote掲載記事の企画・編集・公開に責任を持っています。官公庁・国際機関の公式情報に基づく編集方針を統括しています。