「人は石垣、人は城」。古い言葉ですが、その本質は、いまの経営にこそ響きます。設備や資金と並んで、いやそれ以上に、人材こそが企業の競争力を左右する。そう捉え直す経営が、人的資本経営です。
人的資本経営とは、人材を「コスト」ではなく「資本」と捉え、その価値を最大限に引き出すことで、中長期的な企業価値の向上につなげる経営を指します。人件費を削る対象ではなく、投資して育てる対象として人材をみる。その発想の転換が出発点です。
本記事では、人的資本経営の意味と背景から、指針となる人材版伊藤レポートの3P・5Fモデル、3つの視点と5つの共通要素の中身、そして開示との関係と実践のステップまでを、わかりやすく解説します。ESGのS(社会)の中核テーマとして、お役に立てれば幸いです。
「人材=コスト」から「人材=資本」へ
人的資本経営の出発点となる発想の転換
従来|人材=コスト
人件費は削減の対象
管理・効率化の対象
短期の費用として計上
人的資本経営|人材=資本
教育・働きがいへの投資
価値を生み出す源泉
中長期の企業価値につなげる
人材を削るものから、投資して育てるものへ。この捉え直しが、人的資本経営のすべての土台になります。
≡目次
- 1人的資本経営とは|人材を「資本」と捉える経営
- ►人的資本経営とは
- ►「人材=コスト」から「人材=資本」へ
- ►なぜいま注目されるのか
- 2人材版伊藤レポートと3P・5Fモデル
- ►人材版伊藤レポート(1.0から2.0へ)
- ►3つの視点(3P)と5つの共通要素(5F)
- ►経営と開示の「両輪」
- 33つの視点(3P)|何を実践するか
- ►経営戦略と人材戦略の連動
- ►As is-To beギャップの定量把握
- ►企業文化への定着
- 45つの共通要素(5F)|どこに取り組むか
- ►動的な人材ポートフォリオ
- ►知・経験のダイバーシティとリスキル
- ►従業員エンゲージメントと柔軟な働き方
- 5開示との関係と実践のステップ
- ►人的資本可視化指針と有価証券報告書
- ►経営と開示を結ぶ
- ►スモールスタートで実践する
- 6まとめ|人的資本経営は「投資」として人材を捉える
人的資本経営とは|人材を「資本」と捉える経営
まずは、人的資本経営という言葉の意味と、それが広がってきた背景を押さえましょう。ここを理解すると、開示の動きの意味も見えてきます。
人的資本経営とは
人的資本経営は、人材を「資本」、すなわち価値を生み出す源泉として捉える経営のあり方です。設備や資金と同じく、いやそれ以上に、人材は投資によって価値が高まる経営資源だと考えます。
ここでいう資本とは、財務諸表に載る数字のことではありません。従業員一人ひとりが持つ知識・技能・経験・意欲といった、見えない価値の総体を指します。それを引き出し、育て、活かすことで、企業の競争力と中長期的な価値を高めていく。それが人的資本経営の狙いです。
「人材=コスト」から「人材=資本」へ
従来の経営では、人材はしばしば「コスト」として扱われてきました。人件費は損益計算書の費用に計上され、不況時には削減の対象になりがちです。管理し、効率化する対象という色合いが濃かったといえます。
人的資本経営は、この見方を大きく転換します。人材は、教育や働きがいへの投資によって価値が高まる「資本」である。短期の費用ではなく、中長期のリターンを生む投資先として捉え直すのです。この発想の転換こそ、すべての出発点になります。
なぜいま注目されるのか
背景には、価値創造の源泉が変わってきた事情があります。モノや設備よりも、知識やアイデア、人の創造性が企業価値を左右する時代になりました。無形資産の重要性が高まるほど、その担い手である人材の価値も増します。
加えて、投資家の関心の高まりも見逃せません。財務諸表だけでは見えない、企業の将来性を測る手がかりとして、人材への投資や活用が注目されているのです。そして後で見るように、有価証券報告書での開示も求められるようになりました。経営の実践と情報開示の両面から、人的資本への注目が一気に高まっています。ESG情報開示の全体像は、関連記事のESG情報開示とは|基礎・開示の枠組みと企業が押さえるポイントもあわせてご覧ください。
人材版伊藤レポートと3P・5Fモデル
人的資本経営の実践を導く指針が、経済産業省の人材版伊藤レポートです。その骨格となる3P・5Fモデルを概観します。
人材版伊藤レポート(1.0から2.0へ)
人材版伊藤レポートとは、一橋大学の伊藤邦雄氏を座長とする経済産業省の研究会が公表した報告書です。2020年に最初の報告書が、そして2022年5月には、より実践に踏み込んだ人材版伊藤レポート2.0が公表されました。
このレポートが画期的だったのは、人的資本経営を「理念」で終わらせず、「どう実践するか」にまで落とし込んだ点です。多くの日本企業が人的資本経営に取り組む際の、共通の道しるべとなりました。いまや人的資本を語るうえで欠かせない基本文献です。
人材版伊藤レポートの3P・5Fモデル
人的資本経営を実践するための枠組み
3つの視点(3P)|どう実践するか
5つの共通要素(5F)|どこに取り組むか
経済産業省人材版伊藤レポート2.0(2022年)が示した枠組み。「構え(3P)」と「打ち手(5F)」をそろえて実践します。
3つの視点(3P)と5つの共通要素(5F)
人材版伊藤レポートの中核が、3P・5Fモデルと呼ばれる枠組みです。3Pは「3つの視点(Perspectives)」、5Fは「5つの共通要素(Common Factors)」を意味します。
3つの視点は、人的資本経営を進めるうえでの基本姿勢を示します。一方の5つの共通要素は、多くの企業に共通する、具体的な取り組みの領域を示すものです。視点という「構え」と、要素という「打ち手」。この2つがそろうことで、人的資本経営は地に足のついたものになります。それぞれの中身は、次章以降でくわしく見ていきます。
経営と開示の「両輪」
人材版伊藤レポート2.0が強調したのが、経営と開示の両輪という考え方です。経営戦略と連動した人材戦略を実践すること。そして、その取り組みを投資家にわかりやすく可視化し、伝えること。この2つは、車の両輪の関係にあります。
いくら優れた人材戦略を実践しても、それが伝わらなければ、投資家からの評価にはつながりません。逆に、開示だけ整えても、中身の実践が伴わなければ意味がない。実践し、開示し、その評価を次の経営に活かす。この循環を回すことが、人的資本経営の要諦です。
3つの視点(3P)|何を実践するか
3つの視点は、人的資本経営を進めるうえでの基本姿勢です。それぞれの中身を整理します。
経営戦略と人材戦略の連動
最も重要とされるのが、経営戦略と人材戦略の連動です。自社が目指す経営戦略を実現するには、どんな人材が、どれだけ必要なのか。そこから人材戦略を描くという考え方になります。
ありがちなのが、経営戦略と人事施策がバラバラに動いてしまう状態です。これでは、人材への投資が事業の成果に結びつきません。経営の目標から逆算して人材を考える。このつながりを築くことが、出発点とされています。
As is-To beギャップの定量把握
次の視点が、As is-To beギャップの定量把握です。目指す姿(To be)と現状(As is)の差を、できるだけ数字でとらえることを意味します。
たとえば、必要なデジタル人材が将来何人必要で、いまは何人いるのか。エンゲージメントの目標水準に対し、現状はどうか。こうしたギャップを定量的に把握できれば、打つべき手も具体的になります。感覚や精神論ではなく、データにもとづいて人材戦略を進める姿勢が求められます。
企業文化への定着
3つ目が、企業文化への定着です。人的資本経営は、一部の制度や施策を導入して終わりではありません。社員一人ひとりの行動や、組織の風土にまで根づいて初めて、持続的な力になります。
経営トップが本気で語り、現場の行動が変わり、それが当たり前の文化になる。時間はかかりますが、ここまで到達してこそ、人材戦略は揺るぎないものになります。制度づくりと文化づくりの両方が、欠かせないわけです。
5つの共通要素(5F)|どこに取り組むか
5つの共通要素は、多くの企業に共通する取り組みの領域です。具体的なテーマを見ていきましょう。
動的な人材ポートフォリオ
1つ目が、動的な人材ポートフォリオです。経営戦略の変化に応じて、必要な人材の質と量を機動的にそろえる考え方を指します。
事業の変化が速い時代には、人材構成も固定では立ちゆきません。採用・育成・配置・リスキルを組み合わせ、「いま必要な人材」を動的に整えていく。将来を見据えて人材の配置図を描き続けることが、求められています。
知・経験のダイバーシティとリスキル
2つ目と3つ目が、知・経験のダイバーシティ&インクルージョンと、リスキル・学び直しです。多様な知識や経験を持つ人材が交わることで、イノベーションが生まれやすくなります。
性別や国籍だけでなく、専門性やキャリアの多様性も力になります。あわせて、変化に対応するための学び直し、すなわちリスキルも重要です。社員が新しいスキルを獲得し続けられる環境を整えることが、組織の適応力を高めます。ダイバーシティは、企業の競争力に直結するテーマだといえるでしょう。
従業員エンゲージメントと柔軟な働き方
4つ目と5つ目が、従業員エンゲージメントと、時間や場所にとらわれない働き方です。エンゲージメントとは、社員が仕事や会社に対して抱く、前向きな関わりや意欲を指します。
社員が活き活きと働ける環境は、生産性や定着率を高め、結果として企業価値にも結びつきます。テレワークやフレックスなど、柔軟な働き方を整えることも、その土台になります。人材の力を引き出すには、働く環境そのものへの投資が欠かせないのです。
開示との関係と実践のステップ
人的資本経営は、可視化・開示と一体で進みます。開示制度との関係と、実践の進め方を整理します。
人的資本経営と開示の「両輪」
実践と開示を循環させ、経営の質を高める
実践
経営戦略と連動した人材戦略を進める(3P・5F)。
可視化・測定
取り組みを指標で数値化し、現状と課題を把握する。
開示
可視化指針・有価証券報告書で投資家に伝える。
評価・対話
投資家の評価を受け、次の経営にフィードバック。
↻ 1へ戻り、循環を回す
実践と開示は車の両輪。回すほど人材の現状が見え、経営の打ち手が磨かれます。
人的資本可視化指針と有価証券報告書
人的資本経営の取り組みは、開示を通じて投資家に伝えられます。その手引きとなるのが、内閣官房が2022年に策定した人的資本可視化指針です。何を、どう開示すればよいかの考え方を示しており、2026年3月には約4年ぶりに改訂されました。
加えて、2023年3月期以降の有価証券報告書では、人材育成方針・社内環境整備方針と、その指標の記載が求められています。女性管理職比率や男性の育児休業取得率なども開示項目です。開示の実務は、関連記事の人的資本開示とは|義務化の背景とISO30414・開示の実務、有報での記載は有価証券報告書のサステナビリティ開示とは|記載内容と義務化スケジュールもあわせてご覧ください。
経営と開示を結ぶ
ここで大切なのが、開示を「やらされる作業」にしないことです。可視化のために指標を測る過程は、自社の人材の現状を見つめ直す好機でもあります。
測ることで課題が見え、課題が見えれば手を打てる。その成果をまた開示し、投資家との対話につなげる。開示を、経営を磨くための鏡として使う。この姿勢があれば、開示対応は負担ではなく、経営の質を高める営みに変わります。
スモールスタートで実践する
人的資本経営は、壮大に構えると動き出せません。まずは、自社の経営戦略にとって重要な人材テーマを1つ2つ絞り、そこから着手するのが現実的です。
エンゲージメント調査を始める、必要な人材像を描いてみる、既存のデータを整理する。小さな一歩でも、実践と可視化を回し始めることに意味があります。完璧な体系を最初から目指すより、回しながら育てる。その積み重ねが、やがて自社らしい人的資本経営の形をつくります。
まとめ|人的資本経営は「投資」として人材を捉える
人的資本経営は、人材を資本と捉え、投資によって価値を高める経営です。最後に、要点を振り返ります。
- 人的資本経営とは、人材を「コスト」ではなく「資本」と捉え、投資して企業価値の向上につなげる経営である
- 実践の指針が人材版伊藤レポート(2.0)で、その骨格が3P・5Fモデルである
- 3つの視点(3P)=経営戦略と人材戦略の連動・As is-To beギャップの定量把握・企業文化への定着
- 5つの共通要素(5F)=動的な人材ポートフォリオ・知と経験のD&I・リスキル・エンゲージメント・柔軟な働き方
- 経営の実践と可視化・開示は両輪であり、可視化指針(2026年改訂)や有価証券報告書と一体で進める
人材は、削るコストではなく、未来を生む資本です。その価値にどう投資し、どう引き出すか。人的資本経営は、これからの企業価値を左右する経営の中心テーマになりつつあります。まずは自社の経営戦略と人材戦略のつながりを、見つめ直すことから始めてみてはいかがでしょうか。ESG・サステナビリティの全体像はESGとは|意味・E/S/G・情報開示・投資まで完全ガイドもあわせてご覧ください。greenoteでは、ESG・サステナビリティ経営の実務情報を、これからもお届けしていきます。
出典・参考(一次情報)
※ 本記事は上記の一次情報をもとにgreenote編集部が整理しています。最新の内容は各公式サイトでご確認ください。
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greenote編集責任者
サステナビリティ実務・編集統括
ESG・サステナビリティ開示・脱炭素分野の一次情報を継続的に確認し、greenote掲載記事の企画・編集・公開に責任を持っています。官公庁・国際機関の公式情報に基づく編集方針を統括しています。
最終更新日:2026年6月20日